見えないブレーキが目標達成を阻む
摩擦と粘性――前進を妨げる「抵抗」を見抜き取り除くための思考モデル
摩擦と粘性(Friction & Viscosity)
自転車を漕いでいるとき、ペダルを漕ぐのをやめると、やがてスピードが落ちて止まってしまいます。あるいは、スプーンから蜂蜜を垂らすと、水よりもずっとゆっくりと、まとわりつくように落ちていきます。私たちの前進を妨げ、物事の進行を遅らせる、これらの目に見えない力──それが「摩擦」と「粘性」です。
この物理学の概念は、私たちの仕事や生活においても、目標達成を困難にする「見えない抵抗」の正体を明らかにするための、非常に的確な比喩となります。「摩擦と粘性」のモデルは、物事を前に進めるためには、ただアクセルを踏むだけでなく、同時にブレーキを緩めることがいかに重要であるかを教えてくれます。
「摩擦」と「粘性」とは何か
物理学の世界では、この二つの力は次のように区別されます。
- 摩擦 (Friction):物体が他の物体と接触しながら動くときに、その動きを妨げるように働く力です。地面と靴の間、空気と車体の間に生じます。
- 粘性 (Viscosity):液体や気体といった「流体」の内部に生じる、流れにくさの度合いです。粘性が高い液体は、ドロドロとしていて動きが鈍くなります。
これを私たちの社会やビジネスの言葉に翻訳すると、「摩擦と粘性」とは、ある目的を達成しようとする行動やプロセスが、スムーズに進むのを妨げる、あらゆる種類の『抵抗』『障壁』『非効率』を指すモデルと言うことができます。
社会に潜む「抵抗」の正体
この「見えない抵抗」は、私たちの周りの至る所に存在し、知らず知らずのうちに私たちのエネルギーと時間を奪っていきます。
1. ビジネスにおける摩擦:顧客を遠ざける障壁
企業が顧客に商品やサービスを届けようとするとき、そのプロセスには多くの「摩擦」が潜んでいます。例えば、あるECサイトで商品を購入しようとする顧客の体験を考えてみましょう。
- ウェブサイトの読み込みが遅い。
- どこに欲しい商品があるのか、サイトの構造が分かりにくい。
- 購入ボタンを押した後に、長い個人情報の入力フォームが現れる。
- 強制的に会員登録をさせられる。
- 支払い方法が限定的で、手続きが煩雑である。
これらの一つ一つが、顧客の購買意欲を削ぐ「摩擦」です。この摩擦が大きいほど、顧客は途中で購入を諦めてサイトから離脱してしまいます。Amazonの「1-Clickで今すぐ買う」ボタンは、この購入摩擦を極限まで減らすことで、驚異的な成功を収めた代表例です。
2. 組織における粘性:物事が進まない抵抗
組織の内部には、変化や実行のスピードを鈍らせる「粘性」が存在します。例えば、ある社員が優れた改善案を思いついたとしても、その実行までに以下のような高い「粘性抵抗」が待ち受けていることがあります。
- 直属の上司、その上の部長、さらに関連部署の役員と、何重にも及ぶ承認プロセス(稟議)。
- 意思決定のために、必要以上に多くの関係者を集めた、長時間の会議。
- 部署間の縄張り意識や対立(サイロ化)によって、スムーズな情報共有や協力が得られない。
このような組織の「粘性」が高いと、アイデアの鮮度や実行者の熱意は時間とともに失われ、組織全体が変化を恐れる、動きの鈍い状態に陥ってしまいます。
このモデルをどう活かすか:抵抗を減らすという発想
何かを成し遂げようとするとき、私たちは「もっと頑張る」「もっと速く動く」といった、推進力(アクセル)を増やすことばかり考えがちです。しかし、「摩擦と粘性」のモデルは、「前進を妨げている抵抗(ブレーキ)は何かを探し、それを取り除く」という、もう一つの極めて重要な視点を与えてくれます。多くの場合、抵抗を減らす方が、少ないエネルギーで劇的な効果を生むのです。
- ユーザビリティの改善:製品やサービスを利用する顧客が、目的を達成するまでのステップをできるだけ減らし、分かりやすく、滑らかにすること(=摩擦を減らす)で、顧客満足度とコンバージョン率は大きく向上します。
- 業務プロセスの改善:社内の無駄な承認プロセスや会議を削減し、情報共有を円滑にすること(=粘性を下げる)で、組織の意思決定スピードと生産性を高めることができます。
- 個人の習慣形成:新しい習慣を始めたいとき、その行動を開始するまでの心理的・物理的な障壁(=摩擦)をできるだけ取り除くことが成功の鍵です。例えば、「明日からジムに行く」と決めたなら、前日の夜に運動着や靴を準備しておくことで、「着替えるのが面倒」という摩擦を減らすことができます。
まとめ
「摩擦と粘性」のモデルは、物事を前に進めるための二つのアプローチ、「アクセルを踏むこと」と「ブレーキを緩めること」の両方が不可欠であることを教えてくれます。
目標達成への道が険しいと感じるとき、それは必ずしもあなたの推進力が足りないからではないかもしれません。あなたの行く手を阻んでいる、見えない「摩擦」や「粘性」が存在しないか。この問いを持つことで、私たちは障害の根本原因に気づき、それを賢く取り除くことで、驚くほどスムーズに、そして速く、目的地へと到達することができるようになるでしょう。
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